2018 |
04,07 |
前書き
思い出は時間によって磨かれていくものです。それと同時に少しずつ形を変えいくものでもあります。記憶の循環によって真実と虚構の境目がうまく見出せなくなっていました。だったら書き留めておこう。すべてが真実でなくても良い。存分に脚色も入っています。
誰もが持っている物語。
※人物名、地名は仮の名を宛ててあります。
それはただのペーパームーン 厚紙の海を帆走してゆく
でも、見せかけのものにはならないわ(それって信じることはできないわ)
あなたが私を信じてくれているなら
「It's Only a Paper Moon」
『 ホシオイ 』
「人にはそれぞれ知力に応じた住みかがあるそうだ」。
見上げると青色の階層がどこまでも続く気持ちの良い午後だった。父から聞いたその言葉は当時大学生だった僕に大した感慨はもたらさなかった。それは至極当たり前の様にも思えたし、わざわざ口に出すような事でもないと思えたからだ。
結果として我々は行き着く所に行き着く、ただそれだけの事なのだろうと。なぜ急にこの人はそんなことを言い出すのか、誰かの受け売りかと訝みもした。
僕はその時、“メリークリスマス・ミスターローレンス”をかなりアップテンポに口ずさみながら取りこんだ洗濯物を畳んでいる最中だった≁僕は取りこんだ洗濯物から自分の物を探しだして畳むのが好きだった≁それまでに会話らしい会話もなく父は僕が洗濯物を畳んでいる様子をただぼんやりと眺めていた。
しかしそれが父の残した唯一の≁余り父とは深い会話を持たなかった≁教訓めいた示唆、或いは忠告となった時、僕はその言葉を思い出せずにはいられなかった。そして幾分悩まされたりもした。
つまりはこうだ、ここが本当にお前の〝スミカ〟なのかと。
真夜中の風が秒針を揺らし、手に入らないものを求めては落胆する日々が続いていた。
【第一章】
叔父から絵が送られてきた。
実際にはダンボール箱いっぱいのリンゴの中から新聞紙に包まれた絵が出てきた訳だから、リンゴを送るついでにと言った方が正しいのかも知れない。叔父は何を意図してその絵をよく熟れたリンゴたちと共に送ってきたのか。単なる気まぐれか、それとも捨ててしまうよりは良いという単純な理由かも知れない。
それと言うのも山形で画家をしている叔父は度々自分が残した作品の置き場所に悩んでいると口にしていたからだ。
お礼の電話をした時に聞いてみようかと思ったが叔父はその絵について何も言わなかったし、僕もまた敢えてその事を口にはしなかった。絵を入れておいた事をすっかり忘れているという可能性は叔父の性格からして考え辛かった。“何も言わない方が良い”きっとお互いそう感じたのだろう。
ある種の物事は言葉にするとそこに込められた意味と色合いを失ってしまう事がある。言葉では本当に大切な事なんて伝わりはしないのだから。
言葉はいつだって真意を語らない。
絵を手に取り顔を近づけてみる。油絵特有の粘り気のある匂いと微かなリンゴの香気が絵全体を包んでいた。
その絵は緑青の丘に立つ少女が幾百の星と満月を見上げているというものだった。
裸足の少女は青みがかった白いワンピースを着ていて、風で飛ばないように麦わら帽子をおさえている。肩より少し伸びた黒髪は大きく揺れ、見上げた空には白青の満月と青や緑や黄、赤みがかった星たちがそれぞれの命の光彩を放っていた。そして丘をかすめる様に流れ星がうねる様な曲線を描いていた。
僕はその絵に特段感銘を受けた訳ではなかった。満月の夜に星はうまく観ることができないし、夜中に麦わら帽子をかぶっているのは面白い表現だなと、ひねくれた感想をもった。
もちろん叔父の絵が稚拙だった訳ではない。それと言うのも、その当時僕は深刻な精神的問題を抱えていて≁割愛する≁物事を、或いは絵画に含まれる芸術性、深層心理の表現を肯定的に受け止める余裕を持ち合わせていなかった。時間が経つにつれて周りの色彩が一色一色抜け落ちていく様な、そんな日々だった。
写実ならともかくこれは絵画だ、写真では表現できない意図がそこにはある。
折角なのでその絵を部屋の隅に掛けておく事にした。それはつまり部屋の片隅に掛けて置くのにピッタリな絵だった訳だ。
幾月が過ぎた頃、僕は部屋に飾られたその絵を眺めている時間が段々と長くなっている事に気が付いた。目を覚まし、絵を見つめ少女の姿を確認する。帰宅してからもまた同様だった。星を見上げる少女。いつかその少女がそこからいなくなってしまうのではないか、そんな気さえし始めていた。
やれやれ、どうかしている。
絵を部屋の隅から目につく場所に掛け替えようと思いついた。掛け直す際にキャンバスの裏に目をやると、小さく某県G市と書いてあるのを見つけた。この絵がその場所で描かれたものである事に違いないが、僕はその場所が現実に存在するという事を理解するのにしばらく時間が掛かった。
椅子に座り、しばらくキャンバスの裏に書かれた文字を見つめた。ストーブから発する刺々しい熱が部屋の中に充満し、窓に張り付いた結露が一滴一滴と流れ落ちた。二月の終わり、冬の名残の雪が見境なく光を反射し、贈り物を無理やり受け取らせる様な気分にさせた。
椅子から立ち上がりゆっくりと窓を開けると冷やりとした空気がスルリと部屋の中に入り込んできた。その混じりけのない空気を思い切り吸い込み、雪が作り出す静寂に際立つ鳥の声に耳を澄ませた。
冬がそっと終わりを告げようとする頃、僕はその場所まで行く事に決めた。
しかしG市と書いてあるだけで詳細な場所までは書かれていなかった。叔父にその場所を聞けば事情は簡単なのだが、今さら絵について聞くのは野暮ったく思えたし、役所にでも行って手探りで聞いてみた方が相応しいのではないかと思えた。
氷細工の様に一度手を加えると二度と元には戻らなくなる、そういう事柄なのだ、きっと。
行き先の名前が分かれば十分だ。たとえ目的の場所が見つからなくても久しぶりのドライブと天体観測を楽しめればそれでいい。
そして何より僕には何かに没頭する時間が必要だった。