2018 |
04,28 |
【第4章】
光砂のカーテンの中で揺れる草花はささやかに辺りを祝福している様だった。手をそっと差し入れると闇が払われ、光が指先を透かして赤みのある輪郭を浮かび上がらせた。その手を眺めながら、僕はそこから足を踏み出せないでいた。僕はいま闇の中の住人なのだ。暗闇に息を潜め、侵入者を遠くから見つめる。僕は暗闇であり、森そのものだった。
光量を強め白くなっていく草原。そこに赤や青や黄色、白と様々な色彩の山茶花が降り始めた。地表に辿り着くと音もなく砕け砂になっていく。草はらに色彩豊かな砂の絨毯が広がっていった。
観光案内所で教えてもらった店に向かう事にした。暮夜の濃気が段々と辺りを支配していく。濃紺の空に溶ける陽炎の灯、海風がどこからか夕餉の香りを漂わせた。
その店の外には愛嬌のある赤い提灯が温かく通りを歩く人達を照らし出していた。引き戸を開け中を見渡すと、平日でもほぼ席が埋まってしまっていた。もっと早い時間に来るべきだったかと少し後悔したが、店員に一人だという事を告げ店内を見渡すとこちらに向かって手を振っている女性がいた。
「お連れさんで?」
「ええと、多分」そう言って手を振っている女性のテーブルに向かう。
「こっち、こっち」と二人組の女性の一人が手招きする。
年配の女性の方が苦笑いする。この店を紹介してくれた観光案内所の女性二人だった。
「こんばんは、あなたにこの店のこと紹介したら来たくなっちゃったのよ」と年配の女性。
「そうなんですか。…あの、もし迷惑でなければなんですけど少し御一緒しても良いですか?」
「もちろん、その為に来たってのもあるんだから」と若い女性。
「はい!座ってホシオイサン」そう言うと隣の椅子を勢い良く叩いた。僕は店の人にここに座ると伝えた。
「ホシオ…なに?」
「星を追いかけてるんでしょ?だからホシオイさんよ」
「サエちゃん」と年配の女性がたしなめる様な目をした。見るとジョッキに入った飲み物(酎ハイだろう)は六割方減っていた。
「いいんですよ、なるほどホシオイか。悪くない」僕はその名前の響きが気に入った。
「さ、何飲むの?乾杯しよ」
ビールを飲みたかったがこの後、車で目的地のK公園まで行かなければならない。烏龍茶で乾杯する事にした。
僕が烏龍茶を注文すると彼女は不服そうなうめき声を上げたが、僕の目的は察しているのでその事を言葉にする事はなかった。
「えーと、二人の名前はサエさんとタカエさんで良かったですよね」僕は昼間の二人のやり取りを思い出して答えた。
「ちゃんと覚えてるんだ、そしてあなたはホシオイさん」とサエさん自身もその響きが気に入っているようだった。
「そうだね、僕はホシオイさんです」とおどけて続けた。
「ねぇ、それで事情って何なんですか?」とサエさんは僕の目を見据えながら言った。どうやら気になって仕方がないらしい。
「たいした事情じゃないんですよ。聞いたらがっかりするかも知れない」
「そうやって誤魔化すつもりでしょ」
「オーケー、分かった。また会ったらって言っちゃったしね。でももう少し後で話したいかな、来たばかりだから」
「いいけど、聞くの忘れないからね」
「ホントにたいした事じゃないんだよ」
彼女はまだ疑惑の目をこちらに向けていたが、少し意地悪く言うのを楽しんでいる様子でもあった。
サエさんは腰元まである白いニットセーターにブルージーンズ、耳には月を象った可愛いイヤリングをしていた。タカエさんはダークグリーンのニットワンピースとブルージーンズをシックに着こなしていた。胸元までかかるアジアンテイストのネックレスが彼女によく馴染んでいた。
僕たちはその後、自分たちの抱えた事情をそれぞれ語り合った。
≁割愛する≁
彼女は普通科の普通の高校を卒業≁彼女はそれに普通の高校生を足して自分の事をトリプル普通高校生と呼んだ≁した後、服飾関係の仕事に就いたがすぐにやめてしまったそうだ。しばらくファストフード店でアルバイトしていたが、期間限定の観光案内所の求人を見つけ応募したそうで、そこには公務員の男性と知り合えるかもという下心もあるらしい。
目下夢中になれる何かを探すのが喫緊の課題らしいがその何かが分からないそうだ。よく聞く話でも或る。答えはいつも自分の中にあって、それを探り当てるのが早いか遅いかだけだ。或いはその機会は潜在的に永遠に訪れない。
タカエさんは主婦をしていたが子どもが手を離れた事もあって案内所に勤めだしたそうだ。しかし観光客が役場を訪れるという事はほとんどなく、僕の様な人間は珍しいそうだ。いつも地元の人達の話し相手をしているそうで、そうなるとこの観光案内所も長くはないだろうとの見解だった。
僕たちはお互いの愚痴をかなり開けっぴろげに話した、面白おかしく。
僕たちは分かっていたのだ。きっとこの先どこかで出会う事はないのだろうと。
時刻は午後9時を廻ろうとしていた。
「ねぇ、そろそろ話してくれてもいいでしょ?」
サエさんはとうとうしびれを切らした様に口にした。
「そうだね」
僕は諦めて叔父から絵が送られてきた事、その絵の舞台になった場所を探しに来た事を話した。だがそこに描かれている少女の話まではしなかった。
「それでその場所を見つけてどうするの?」
「さぁ分からないな、ただ見てみたいんだと思う。その絵に描かれた風景と同じものを見て何を感じるのか」
「ふーん、なんだ。なんかつまんないけど、嫌いじゃないかな、そういうの」彼女は少しがっかりしていた様に見えたが何か思案している様子でもあった。ロードムービーを観終えた観客のような顔つきだった。
僕はタカエさんとお互いの身の上話の続きをした。旦那がいかに家を留守にして釣りに興じているか、釣り用ボート購入の企てをいかに阻止するかを熱く語った。
「よし!」
サエさんは急に大きな声を出して立ち上がった。僕とタカエさんは半ば口を開けたまま彼女を見上げた。
「わかった、私たちも行く。ね、タカエさん。一緒に行くよね?」
僕とタカエさんは顔を見合わせた。
「え?ダメよ、迷惑になっちゃうから」
「迷惑な訳ないよ、大勢の方が楽しいよ、きっと。ね、そうでしょ」と僕の顔をみやる。
「楽しければいいってものじゃないでしょう」とタカエさん。
「ね?いいでしょ。ホシオイさん」
僕は二人の顔を交互に見ながら暫く考えてみたが二人だろうが三人だろうが問題ないように思えた。
「別にいいよ、二人が来たいのなら。一人で星を見て感傷に浸りに来た訳でも、涙を流したい訳でもないし」
「ホントは一人で号泣したかったりして」サエさんが目を細めて僕を見る。
「まさか」そう答えた後に自問する、僕は泣きたいのだろうか。
「決まり」彼女はジョッキを前に掲げた。
僕たちは反射的に半分氷が溶けた烏龍茶のジョッキを掲げた。彼女は不服そうにそのジョッキを見つめた。